7000アクセス記念企画
森茉莉の愛した男


すんません。6000アクセスが飛んで7000アクセス企画になってしまいました。
それに今回はお遊び企画でもありましぇん。強いて言うなら「森茉莉ひとくちメモ」かな。 
つーワケで、心理学者の矢田部達郎氏のことである。知ってる人も、誰だかわからん人も読んでくれ。
パッパと並んで茉莉の憧れの人であった。

引用部分はすべて、角川文庫の『華麗なる年輪』(渡辺淳一対談集)からである。
これは、はるか昔のJJ(昭和56年3月から57年2月)に連載されていたもので、渡辺<失楽園>淳一センセイが、
年輪を重ねてなお魅力的に生きている(と思われる)女性を相手に対談している。
ちなみに他の対談相手は、宇野千代・淡谷のり子・水の江滝子・ミヤコ蝶々・小森和子など、多士済々である。
古本屋で見つけたら是非ゲットして欲しい逸品である。……渡辺センセイはつまんないけどな。

では次回、10000アクセス記念企画で逢おうナリ。(……サボりすぎ?)


 矢田部達郎とゆーのは、森茉莉の書いた美少年三部作の一つ『日曜日には僕は行かない』の登場人物、杉村達吉
モデルである。杉村は美少年・ハンスを愛する美貌の小説家である。
 矢田部は茉莉の夫、山田珠樹の友人で、茉莉と珠樹がパリへ留学した時も一緒に行っている。珠樹と矢田部は同じ歳
で、茉莉より10歳上だった。


   『夫の友達に心理学者の矢田部達郎という人がいて、これが希代の色男でした。ベルリンでもパリでも女が惚れましてたいへんなんです。
    下宿の女中でも良家の子女でも夢中になって。何しろパリのジャン・クロード・ブリアリと鞘当しても勝つだろうという感じの人でした。』
    

 どんな風に色男なのかというと、

  『髭が濃い人で、朝剃っても夕方はまた剃るようで、その剃りあとは真っ青なの。眉はゲジゲジで当麻蹴速(たいまのけはや)っていう感じ。でも色男なの』

 だそうだが、茉莉の描写ではよくわからない。知的と言うか、頭の良い人ではあったようだ。

  『とにかく頭がたいへんいい人らしくて、よく私たち夫婦とジャンヌ・ダルクという、パリの宿に泊まってて、昼食で一緒になると、山田が、昨夜の議論の話をしてね。「矢田部は悪いやつだよ。僕の落ち込みそうな罠をほうぼうに仕掛けていて勝つんだから」って言ってました。
  目は剃刀のように青く光るんだけど、光ってないときはまぶしそうにして笑うとやさしくて、女と子供が膝へ登らんばかりに懐くんです。だけど議論してるときの目は鋭くて、ちょっとお父さんの目みたいでしたよ。』

 というわけで、やはり茉莉の理想の男はパッパこと森鴎外なのであった。
 さて、鴎外と矢田部は逢ったことがあるのだろうか?

 『私の婚約中に一度来て、父と十五分ほど話して帰りました。ところが、そのあと父が矢田部さんの噂を母にしなかったの。父は、こいつは偉いと思ったんでしょうね。珠樹とは比べものにならないと思ったけど、珠樹に悪いと思って黙ってたんだと思うの。
  あんまり珠樹がガタ落ちで気の毒だから、黙ってたんでしょう。矢田部さんに比べたら、誰でもガタ落ち(笑)。大体、鴎外のところへ行って話そう、という勇気があったんですもの。辰野さんなんか、陰じゃ威張ってたけど、とうとう来ませ   んでしたからね。』

 なるほど。茉莉のひいき目を半分に差し引いても、なかなか大した人物らしいということはわかる。ちなみに陰で威張っていた「辰野さん」とは、フランス文学者の辰野隆である。辰野も茉莉たちの留学に同行したのだが、融通のきかない石頭らしくて、茉莉は心中密かに彼を嫌っていたのであった。ははは。

 矢田部は茉莉の密かな憧れの相手だったのだが、子供扱いされるだけで全然相手にされないのであった。また、その思いが通じたのかと言うと……

  『それがね、私が二十五になったとき、ああ、もう大人の女になった、とお思いになったらしくて、誰もいないときに「今度、どこかへ行かない?」って言ったの。そこで私がバカなのね。わ、たいへん! ステキだ! と思って、どうご返事しようかなァ、と思ってるうちに、もう自分の口がしゃべってるの。アラ、何しゃべってるのかと思ってその声を聞くと「今度山田がどこかへ一緒に連れてく、って言ってたからいいわ」って(笑)。
  一生に一遍しか申し込まれないのに、それ、断っちゃった。それも無意識に。』

 うーむ、茉莉らしいと言えば十分茉莉らしいのだが、それにしても勿体無いことを……。そして茉莉と矢田部の関係は、急転直下の結末を迎えるのであった。

  『矢田部さんはね、私が家を出る一年前に珠樹たちの仲間から追放されました。ある奥さんと一線を越えたというので。そうして三年後に、咽喉の癌でお亡くなりになったの。
  私はせめてお見舞いに行って、パリ時代の楽しいお話をしてさしあげたい、と思って、そういう手紙を出したんですけどご返事がなかった。
  それはね、私が出てから、珠樹が私のことをたいへんな色気違いだという噂をまいたものですから、世のご夫人方は恐れをなしていてね。そのころは矢田部さんにも奥様がいらしたので、たいへんな人から手紙が来たと思って、見せなかったかもしれないのね。あとで考えると残念でね。爵(じゃっく)を連れて行けばよかったと思って。爵という免罪符があれば通れたでしょ。でもまた考えて、彼は喉頭癌だったそうだから、面変わりした顔で、それでも笑って「茉莉子さん」なんて言われたら、たまらなかったろうと思うのね。だからやっぱり行かないほうがよかった。』

 茉莉はここでも幸せだなあと思う。パッパも、矢田部も、良い時、元気な時、笑っている時の顔しか覚えていないのだから。
 好きな人の最期を看取るのは、本当に辛いことだ。神様も茉莉には必要ない試練だと思ったのかもしれない。

  『この間ね、テレビ見てましたら、所ジョージという人が「女が俺を危険と思わない」なんてぼやいていました。私、テレビに向かって「バカ言うな、私はずいぶん長生きしてるけど、危険な男は一人しか見てない。危険でなくたっていいんだよ」って(笑)。』

 ここまで言われたら男も幸せだろう。矢田部達郎とは、本当にいい男だったに違いないのだ。