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15000アクセス記念企画
森茉莉と息子たち
うひー。1万5千アクセスとは。月日の経つのは早いもんじゃのう。
ということで、久々の記念企画ですだ。毎度更新遅れてスマン!
今回は「森茉莉ひとくちメモ」第3弾。森茉莉と茉莉の息子たちのことをちょっと書いてみる。
信じられないことに森茉莉は二児の母であったのだ。あんな母親がいたら息子はどんなトラウマを背負うことになるのだろうか。
参考文献は『贅沢貧乏』と、あと森茉莉全集に入ってる随筆とか、『怒りとぼやきのマリア』とかいろいろ。
アタマの中でぐにゅぐにゅこねて書いたナリよ。
では次回、ネタがあったら20000アクセス記念企画で逢おう!
資産家の息子、山田珠樹と16歳で見合い結婚した茉莉は、翌年に長男を出産する。これが長男・爵(じゃっく)である。そしてその5年後、二男・亨(とおる)が誕生。二人の息子の小難しい名は、茉莉の父・森鴎外による命名である。それはおかしいぞ二男は鴎外の死後に生まれてるじゃないか命名できないじゃないかと思った人は森茉莉Q&Aを参照のこと。
実際的な仕事がまるで出来ない(本人にもその気がない)茉莉がどうやって子育てなんかしてたのであろうかと思うのだが、そこはやっぱり森茉莉で、面倒なことは一切やっていなかったのである。当時、茉莉の家には女中さんが沢山いた。その女中さんたちに育ててもらったのである。後に息子たちのしつけを頼むために、子育て専門の家政婦さんを雇うことにもなる。茉莉は何もしなかった。寝ている子供の毛布がはだけていて、風邪をひくからちょっとかけておいてやろうか……という、ただそれだけのこともしなかったのである。これは本人が随筆で言ってたことだから本当であろう。
『私はぼんやりしていて子供の毛布がはだけていても気付かなかったので、子供に風邪を引かせまいとすると誰かがやるよりほかになかった。』
って、そんなこと自分で言ってどうするんだよう!今時の、しつけ放棄のヤンママよりタチ悪いんではなかろうか。
茉莉は爵が2歳の時に、留学した夫を追ってパリに行き、人生の春を謳歌する。この、19歳でパリのカルチェ・ラタンに暮した一年あまりの生活が、森茉莉にとっての一生の夢の城となった。子供を置いて渡欧して、呑気に『私はパリで、パリジェンヌになった』などとぬかしてる場合じゃないと思うのだが、茉莉は本気で子供のことなんか忘れていたらしい。まあ、行く方も行く方だが、行かせる方(主に夫と森鴎外)も行かせる方である。
まあそんなこんなで二児の母になった茉莉だが、じゃあ何もしなかったかというと唯一、情操面での教育を施したという自覚はあったようだ。何もわからず喋りもしない幼児の頃は放りっぱなしにしておいた茉莉も、子供が喋るようになると関心を持ち出す。茉莉は28歳で山田珠樹と離婚するのだが、離婚前の冷え切った家庭生活では夫婦の間には会話がなく、『唯一会話があったのは、私と爵の間だけであった』という状態らしい。茉莉は絵を描いたり、フランス語の歌を教えたりと、遊び友達として子供を可愛がっていたようである。
その後茉莉は二人の子供を置いて離婚。茉莉24歳の時である。離婚の時に山田珠樹に『子どもはだめだよ』言われたからである。珠樹は、そう言ったら茉莉が離婚を思いとどまるかと思ったらしいが、言われた茉莉は子どもを置いてさっさと家を出てしまった。『私には薄情なところがあるらしいが』と書いているが、これは誰が見ても薄情である。しかし本人にはそんな自覚がない。茉莉と珠樹の離婚は、当時の大スキャンダルになった。頼みとする鴎外は茉莉がパリにいるころ他界していて、残された茉莉の家族は肩身を狭くしてひっそりと生活しなくてはならなくなったのである。
離婚しました、と与謝野晶子のところに挨拶に行った時、『茉莉さん、お子さんを置いていらして悲しい、ということだけは仰らなくてはいけませんよ』とアドバイスされる。与謝野晶子から見ても心配になるくらいあっけらかんとしていたらしい。
そして時は流れて約20年後。43歳になった茉莉は、二男・亨と再会する。亨は平凡社に入社し、編集者になった人である。
物心つく前に茉莉と別れた亨は、自分の実母が森茉莉だということを知らずに育った。山田珠樹は茉莉と離婚して後、再婚したのだが、その時に『亨の母親が茉莉だということを、亨には絶対に言わないように』と親族郎党、友人一同にかたく口止めしたからである。亨は継母を本当の母だと思って成長したが、珠樹が亡くなった時に兄の爵から『僕たちの本当の母親は、森鴎外の娘の、茉莉という人だ』と知らされて仰天したらしい。ある意味、幸せな人である。
亨は茉莉と逢う手段として、茉莉の妹・小堀杏奴に手紙を書いた。当時の茉莉はまだ無名で、杏奴は随筆家として名を成していたからである。亨は杏奴と何度か文通し、杏奴の家で茉莉と再会する。その時の様子を、亨はこう書き記している。
『(茉莉は)「亨」と言って僕を抱き締めて、激しく泣いた。抱かれながら思った。母親というものは、子どもを抱き締めるんだなと。僕は継母から一度も抱かれた記憶がなかったからだ。父に抱かれた記憶は、何度もあるのに。』
亨も可哀想な人だが、この文章にワタシは驚いたものである。茉莉が息子と再会して泣くような人にはとても思えなかったからである。離婚しても息子がいたことなど考えもせずに暮していた(はず)なのに、この感傷は何なのだろう。茉莉の神経はやはりわからないことだらけである。
亨は物心つく前に茉莉と別れているので、爵に比べるとまだ常識のある大人に育ったようだ。晩年の茉莉の面倒をみようと積極的に動いたのは亨夫婦である。しかし亨もちょっとは茉莉の血を引いているようで、『僕が父に可愛がられたのは、顔が茉莉に似ていたせいではないかと思っている。』とか書いたりする。自意識過剰な点は茉莉譲りか?
この常識人の弟に比べると、兄の爵は茉莉に刷り込みを受けたせいか、かなり変わった大人になっている。
茉莉が爵と再会したのは48歳の時。ほぼ25年振りの再会である。しかし茉莉と爵との再会は、亨との時のように劇的でもなければ、涙もなかった。ある日茉莉が一人暮しのアパートでひなあられを食べていると、突然ドアが開き、成人した爵がふらっと上がってきたのである。流石に驚く茉莉の前で、爵は何事もなかったように茉莉の隣の座布団に座り、卓上のひなあられを平然と食べ始めたのであった。
31歳になった爵は珠樹と同じフランス文学を専攻し、講師をしていたのだが、助教授になることが決まったので茉莉を訪ねて来たのだという。講師から助教授になるには周囲の推薦(反・茉莉派だった珠樹の友人たち。辰野隆とか)が要るのだが、助教授から教授になるには本人の実力次第なので、反茉莉派に対する遠慮もなくなった、ということらしい。割りと変わり身の早い人である。
それから爵と茉莉の蜜月が始まった。
茉莉に言わせれば『恋人のように』だが、爵は茉莉と腕を組んで街中をさ迷い歩き、微笑み合い、それはそれは楽しい時間を過ごしたらしい。茉莉の友人たちも二人の仲の良さを羨み、自分もあんな息子が欲しい、と言ったらしい。すると茉莉は『それには息子を産んで、8つまで育てなければ。そしてその子を捨てなければ。』と言ったらしい。いくら冗談めかしてとはいえ、この得意げな調子は一体何なのであろうか。
爵は若い恋人を連れて茉莉の家によく遊びに来たらしい。そして3人で腕を組み合って遊びにでかけたりして、睦まじい関係を築いていたようだが、これがちょっとおかしいというのは爵はこの時既に結婚していて妻子があったことである。
爵は結婚し、妻の母親と一緒に暮していた。実母と再会した爵に妻も姑も祝福を与えはしたが、すぐにそれは呆れと非難に変わってゆく。爵の家で茉莉が風呂によばれ、続いて爵が入ると、側で妻が食事の支度をしているというのに風呂から半身を出して『ママの入った後のお湯、ぬるいのね』などと言って茉莉に笑いかける。孫を可愛がらないわけではないが、お菓子の箱を開けると孫よりも先に手を出しそうになる。周囲の人間が呆れるのも当たり前である。
ついには妻の母親に『爵が手におえないと思っていましたが、それを上回るのが出てきました。』とまで言われる。
爵は後に東大の仏文科名誉教授になり、死亡記事が新聞に載るような偉大な人物ではあったのだが、いかんせん茉莉から引いた血はかなり濃かったようである。
本当に、茉莉の子供は息子で良かったような気がする。もし娘だったら……茉莉は理解されなかったかもしれない。
後に茉莉の出版記念会で、爵はスピーチを求められ『僕は子供の頃、池に落ちたら母は助けてくれないと思っていました』と述べた。
そんな母親と息子とでも、20数年の歳月を離れて過ごしても、愛情は通じる。親子の情愛というのは、そういうものなのであろうかと、子どものいないワタシなどはひどく不思議な気がするのである。
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